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別府3億円保険金殺人事件と荒木虎美|アンビリバボー

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別府3億円保険金殺人事件と荒木虎美|アンビリバボー

フジテレビの「奇跡体験!アンビリバボー」で別府3億円保険金殺人事件について放送されました。1974年11月17日、大分県別府国際観光港の第3埠頭に車が転落し、車内から荒木虎美(あらきとらみ)の妻と2人の娘が発見されました。救出された荒木虎美は命に別状はなく外傷もありませんでした。この夫婦には15歳になる長男もいましたが、受験勉強のため自宅で勉強していました。別府市の自宅を出た荒木虎美は妻と運転を交互に代わりながら関門橋を見物。その帰りに大分の夜景を楽しもうと別府国際観光港へと車を走らせました。このとき運転していたのは妻で長距離の運転で疲れていた荒木虎美は助手席でうつらうつらしていたと言います。妻は運転操作を誤り車は海に転落。衝撃で割れたフロントガラスから荒木虎美だけは何とか這い出し九死に一生を得たと言います。突如家族3人を失った男は悲劇の夫として翌日新聞にとりあげられました。荒木虎美は臨時教員を生業としていました。彼には14年前に一度離婚した過去がありました。それは事故が起こる約1年前の1973年10月のこと。荒木虎美は大分市の結婚相談所を訪れていました。10年以上の独身生活を経て真剣に再婚を考えていたと言います。それから間もなく41歳の和子(仮名)を紹介されました。彼女は夫に先立たれて以来、生活保護を受けながら市内のレストランなどでアルバイトをし3人の子供を育てていました。それを健気に思った荒木虎美は彼女をことを守ってやりたいと思うように。そして一家の生活費も工面。献身的に彼女に尽くすようになりました。出会ってから1年後、2人は結婚。3人の子供たちとは養子縁組を結び荒木虎美は事実上、子供たちの父親となりました。
発生当初は事故による悲劇と報じられていましたが、マスコミが荒木虎美について調べ始めたところ次から次へと彼のとんでもない過去が明らかになっていきました。農家の長男として生まれた荒木虎美は臨時教員として働いていた22歳の時、恐喝罪で逮捕されています。その後、自宅に放火、全焼させ保険金詐欺で懲役8年の実刑判決を受けています。他にもいくつもの罪をおかし、人生の大半を獄中で過ごしていました。そんな男が起こした転落事故。マスコミが疑惑の目を向けるのも無理はありませんでした。それだけではなく、事故から2日後に行われた葬儀に喪主である荒木虎美は出席しなかったのです。さらに結婚直後、荒木虎美が妻子にかけていた多額の保険金が明らかに。3人は大手6社の保険に加入。死亡時に支払われる総額は3億1000万円(現在の価値で約9億円)にもなっていました。こうした事実から保険金目当ての偽装事故ではないかとメディアはこぞって報道。悲劇の夫から一転、疑惑の人物として大きな注目を集めることになりました。
事故から4日後、荒木虎美は記者会見を開き身の潔白を主張。保険金殺人をにおわせるいくつもの事実はあがっていましたが、決定的証拠と呼べるものがなく逮捕に踏み切れずにいました。事件から24日後、ワイドショー番組「3時のあなた」に生出演し再び身の潔白を主張しました。荒木虎美を助けた釣り人の目撃証言によると、荒木虎美は岸壁に引き上げられたあと車内に妻子が取り残されていることを語っていました。しかし、ワイドショーでは海に泳いでいる時にそのことを話したと語りました。この矛盾を番組出演者につかれると荒木虎美は「もうくだらないテレビ番組には出ません」「アホらしいバカバカしい連中には付き合っていられないんだ」と激高し、生放送中にも関わらず席を立ちスタジオを出て行きました。その後、緊急の記者会見を開いた荒木虎美は殺人容疑で逮捕されました。
転落事故を起こした荒木虎美の車には様々な細工が施されていました。車内には水抜き穴があり、その穴には通常ゴム栓がしてあるのですが、荒木虎美の車のはゴム栓が事前に抜かれていました。これは車がすぐ沈むように仕掛けた細工ではないかと思われます。さらに警察は同じ車種を使い検証実験を行いました。そのさい、転落の衝撃でフロントガラスが割れることは確認されています。水抜き穴の栓を抜いた車はわずか15秒で水没。これらの事実から警察は転落後、荒木虎美は割れたフロントガラスから脱出、妻子はパニックに陥っているうちに車内に取り残され溺死したと推測。わずか15秒ほどで沈む車から脱出するには予め事故が起こることを予測しておく必要があります。そこで警察は荒木虎美がハンドルを握りわざと事故を起こしたに違いないと考えました。しかし、荒木虎美はあくまで妻が運転し転落したと主張。双方の意見は対立していました。しかも発見時、妻の遺体は後部座席にありました。そのため彼女が転落時、助手席と運転席どちらにいたのかは分かりませんでした。法医学を専門とする大学教授に事故の鑑定を依頼。その結果、妻の遺体の左右の膝にあった傷の位置と助手席のダッシュボードにあった2箇所の凹みの位置が一致。警察は逮捕に踏み切りました。
荒木虎美の裁判は事故の翌年の3月に始まりました。警察は不可解な結婚へのいきさつについても言及しました。荒木虎美は再婚の相談の際、小さい子供がいる母子家庭の人を紹介して欲しいと条件を出していました。その後、和子を紹介された荒木虎美は彼女の家の向かいのアパートに引越し生活を始めました。出会った当初、和子は交際に対して前向きではありませんでした。しかし3人の子供の将来を考え荒木虎美のプロポーズを受け入れました。しかし、長男と長女は荒木虎美になつくことはなく荒木虎美を「アレ」と呼んでいたと言います。また結婚後も家族が一緒に住むことはなく荒木虎美は向かいのアパートで生活し、和子が通い妻をしていました。その上、荒木虎美には複数の交際相手がいたことも発覚。そして事故の数日前「もし僕が事故で死んだら、このインコをあげるよ」と言っていたそう。中でも裁判で注目されたのが荒木虎美が24年前に起こした保険金詐欺。彼が保険をかけた家はわずか2週間後に家事で消失。この一件で懲役8年の実刑判決を受けていました。しかも今回のケースも保険の契約から事故まで2ヶ月ほどしか経っておらず警察が不自然ととらえるのも無理はありませんでした。しかし、これらは事実からの推測による状況証拠にすぎませんでした。裁判の争点は車が転落したとき、荒木虎美と和子のどちらが運転していたかに絞られていきました。
裁判開始から1年半後、一人の目撃者が証言台に立ちました。事件があった場所からほど近い国道を走っていたという高橋。信号で荒木虎美の車の横に止まったという高橋は運転していたのは女性ではなく男性だと証言。すると荒木虎美は第3埠頭へ直接行ったのではなく、第2埠頭へ行ってから第3埠頭へ行ったと証言をかえました。しかし当時、別府国際観光港では工事が行われていて第2埠頭と第3埠頭の間にはテトラポットが積まれていたため、第2埠頭から第3埠頭へ向かうことは不可能でした。
1980年3月28日、死刑判決が下りました。荒木虎美はすぐに控訴。しかし、福岡高裁は控訴を棄却。死刑の判決が下されました。そこで荒木虎美は最高裁に上告。上告中に荒木虎美は肺がんを患い1989年1月に医療刑務所で死亡しました。結果、裁判の継続が不可能となり最終的な決着がつくことはありませんでした。
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